昭和41年07月11日  夜の御理解



 真に有り難いと思う心、真に有り難いと思う心はすぐにおかげと直結する。おかげの始めとも仰る。真に有りがたしという事は、真に有り難いと実感するという事。有り難い、有り難いとこう実感するという事だと思うですね。ところがその、有り難いと思うておりますと言うても、広大なおかげを頂きますと言うても、やはりこの実感が湧いて来なかったらどうにでも出来ないですね。 
 今朝から久富さんお参りさせて頂かれてから、ほぉ今ごろの時間にどうしてお参りかと思ったら、ただ今その、国雄のところから電話が掛かって参りました。昨夜から野菜市場に佐賀の方へ、野菜を出しに行っておる途中で、目達原の近所で自動車が正面衝突を起こしとる。その、電話ないものですから、お父さんの、善導寺の方の久富さんのところに電話が掛かってきた、それであちらから、すぐ連絡があった。
 それでまぁ国雄が電話は掛けて来ておりますから、国雄がその怪我をしとるという風には思いませんけれども、とにかくむこうの自動車はひっくり返っておるそうで御座いますから、まぁむこうが怪我をしとるかどうかも分からないまぁその程度であった。それからすぐお届けだけして、そして帰られてまたお願いに見えられて、そのすぐ勇さんとそれから善導寺の久富さんと繁雄さんの御兄弟二人がさっそく現場に行かれて。
 繁雄さんはここで一生懸命御祈念される、勇さんはあちらへ行って、ちょうどお昼、私が下がる時間でしたが、帰って見えられまして。しかしその、今日のその事でも思いますですねぇ。夕べの月次祭の後のあの、御理解と言い、今朝からの御理解と言い、本当にあの、今朝の御理解なんかはあの、先生が言う事をですね、その言うならば、先生を色眼鏡で見ると言うような事を頂いたんですけどね。
 もう本当にあの、例えば聞くでもそう。先生はあげん仰るけれどもという聞き方はやはり色眼鏡で見ておるような聞き方なんですね。先生はあげん言いなさるばってんから、というような。そういうような聞き方じゃなくて、もう本当にそれを実感としてですたい、はぁ先生がああ仰ったからとこう、本当に信心の身が引き締めれと言われたら引き締める。改まれと言われたら改まる気持ちにならなければ、それが実感てその時に湧かなければ、それが出来んのですよやはり。 
 ほれでまぁ、大変なおかげを頂いておるのでございますけども。勇さんここでお届けをされるのに、まず涙をボロボロ先に流される。これが有り難いの実感なんです。先生もう行って見て驚きましたち、ね。もうあの自動車を、いわば見てから、助かっておるち言う方が本当に不思議なくらいでございますと。むこうの自動車、もちろん、むこうからやっぱ突っかけて来た訳なんですけども。それに突っかけて、国雄さんの車におぼしかかって、そして向こうへ一回転して転んだと、向こうの車は。で、向こうの車はどうもしてない、乗っとる者もどうもしてなかった。
 まぁこちらに、国雄さんもまぁ、どうもしてないっちゃ、どうもしてないのだけれど、まぁ念の為に医者に行って、頭を打っておるから、まぁ今日でも帰ると言いよったけれども、まぁ今日、繁雄さんの話では、まぁ医者でしばらく養生したが良かろうという事であったそうでございますけれどもですね。まぁ自分が電話を掛けてから、自分で医者に、その佐賀の方から久留米の方まで、医者は探してあるくらいですから、まぁその、押して知るべきだと思うんですけれども。
 例えば肝心要のお父さんは電話を受けてからこういう事故に会うたと言うだけですから、はぁおかげを頂いた。もうこれは間違いないのだけれども、叔父さんの勇さんの方は実感に有り難いが感じておられるという事です。またあちらさえへ、私が下がってからでもです、もうその自動車がこう壊れておる、もう前、前後の方のエンジンの方がしゃげてしもうとるとですよ。だからもうちょっと、なら運転ドライバーの、そこがもう、紙一重のところですから、もうプチッと運転側の方に落ちかかっとるならば、国雄がぶっちゃげしもうとったでしょうち言ってこう言われるんです。
 それをなら間のあたりに見てきておるもんですから、やはり実感としておかげを受けたという実感がです。だからおかげを受けたという実感がそのまま、有り難いという実感にもなって、涙がこぼれるほどのという事になってくる訳なんですね。信心はですね、この実感を私は尊ばなければいけない。有り難いと言うても、相済まんと言うても、有り難うございますと言うても、すいませんのお詫び、お礼、願いにしてもです。
 やはり実感としてのそれが願いでなからなければです、ね。 ですから、例えば取次ぎの先生でも、自分自身が根限りの病気をさせて頂いてからおかげを頂いた人のところでは、やはり病人が助かるというのも、その先生自身がです、ね、病気の苦しさという実感を感じておられるから、その実感を持って取次ぎが出来るから、やはりおかげも受けるんですよね。 ね、ですからその実感を求めての有りがたし。
 そうでしょうが、誰が考えたって叔父さんとお父さんち言うなら、お父さんの方が有り難いて言わにゃならんとでしょうが、本当は。なら繁雄さんが有り難くないと言いよりなさる訳じゃない。けれどもなら、涙が出るほどにというところまでは、まだなか。勇さんな、ここにも、あちらへ下がってからでもです、いろいろ説明を、他の人にしよんなさると、その自動車の
 ぶっちゃげとる事を言いよる時に涙を流しなさいますよ、ね。自分が間のあたりにそれを見て来ておる。よ~もこげな事故で助かったもんじゃあるな、ほんに夕べこそ今朝こそ、先生がああいう御理解を説きなさったのに、自分達が色眼鏡で見とらんごたるけれども、どこにか色眼鏡で見とるような所があるんだというような事も感じられたんじゃなかろうかと私は思う。
 まぁ、これは余談ですけれども、本当に、まぁここを高校とするならば、合楽の大学というような事を今度の学生新聞に書いておりましたがです、ね。確かに高校の試験よりも大学の試験の方が難しか。 まぁ言うならば、おかげで、まぁどうやらこうやら大学の試験にパスしたというような感じがします。ちょうど秋永先生が6月の23日にああいう事故に会ってから今日までの間に、ちょうどそういう正面衝突的なです、もう紙一重、間違うたら命がないというようなおかげを受けた人達ばっかが10人ありました、きっちり10人でした。ただ事じゃないでしょう。
 これだけでも椛目が有り難いという事がひとつお互いが分からなきゃいけませんです。良しにつけ悪しにつけ、ひっくり返って考えたら、その反対なことね。そういういわば生き生きとした神様の働きをです、ちょうど教祖の神様が七墓築かれるような事が、あの実意丁寧な御信心をなさっても次々と起こってきたと。それでも神様に対するところの態度というものはです、凡夫の事で相分かりもせずどこにお粗末御無礼があるやら分かりませんと。お粗末御無礼がある所はどうぞ平にお許し下さいというあの態度。
 改まりもします、磨きもします。どうぞ知って向えば命を取り、知らずに向えば身を取るほどしの新たかな神様であるならばです、また目を下さることも出来るであろう、また命を下さることも出来るであろう。ここに教祖の神様の素晴らしさがあるですね、そういう見方をされたということが。恐れおののくその当時の金神様に対してから、そういう態度を持って向かわれた。
 そして、お向きを変えて下され、お向きを変えて下されという、その信心がです。実意丁寧を尽くした、そこに今まで、ね、恐い、障り祟りの神様とばかり思うておったその金神様が、天地金乃神という神様に現れて、慈愛あふれるばかりの働き、おかげ、そういうもの、そういう神様の本当の姿を教祖の神様に現しなさったという事になる。椛目もやはり、そういうようなものを感じられますですね。夕べの御理解にもございましたように。高橋先生のお言葉じゃないですけれども。
 もう本当に、見るころ見ること自分を見ることね、そこんところの私は信心がです、今こそ出来なきゃならないと。そしてただ今申しますように、実感としてです有り難いと感じる。実感として相済まんというものでなからなければですね、本気で改まろうという気が起こらんです。おかげを頂いてここでのおかげを頂きましたと言うておるだけでは、ね。先ほど富永先生が見えておりますから、色々お話しておる中にです。
 先生その、まぁ色々まぁ、ふに落ちない分からん事が沢山あると。最近はあちらの親教会の、富永先生の親教会でありますところの、日奈久じゃなかった、松橋。教会のなつめ先生ですね、ここにもちょいちょいお見えになります。その親先生であるなつめ先生がこちらに見えられてです、ね、一番初めにビックリされた事はですね、椛目のあの御結界の様子というか、皆がお取次ぎを頂いておる、あの姿というものがです。ああいうお取次ぎはもう3代金光様の他はないと思うておったと。
 ところがああいう姿が椛目にあるという事がビックリされた元であったという事である。 まぁそれはまぁ、その、そんな訳でも実際ないのですけれどもです、ね。まぁ言うならば私が一生懸命でここで御用させておる姿というものに、言うならば感心しなさったのじゃないでしょうか、ね。だから、さっそく自分の教会に帰られてからです、そのいわば、厳然とした態度を持って信者に接っせられ、お取次ぎをされるようになったという事でございます。ところが、先生不思議な事なんですよと。
 もう本当に、私共が参りましてもです、もう本当に厳然として、そのお取次ぎをなさる。ちょうど言うなら、椛目のような状態だとこう言う訳なんです。ところが信者が、あそこに信者が、私の方に来て私に話しますのに、最近うちの先生が変わられたと。ばってん、とにかくあんまりその、こう厳々として、ござるもんじゃから、もう寄りつきにくうしてから、私はかえって皆を「      」おかげを落としよると、いう事実があるという事なんです、ね。
 そういう意味の中で、ひっかえて同じ熊本の吉田先生のところの隈庄の教会です。ね、この人もやっぱり、初めにお参りをさせて頂かれてからもう分かったところ。椛目の信心の、まぁ言うなら一目惚れとでも言うか、ね。それこそ、先生の癖まで覚えて帰ったというぐらいです。御祈念をされる姿、今までは外にばっかり出ておったのが、ね、お話が上手ですからあちらからお話に来てくれと言やぁお話に行った。どこにでも好んで行かれた。だから私そこんところを、まぁ御結界に専念しなさいという事。
 いわば夏でも冬でも羽織はかまをつけて、まぁしかも足袋まで履いて私がこうやってしておる姿を見て、それはそのまま真似して帰られた。それでそれをそのまま実行しておられる。ところがあちらもですね、どんどんそれ以来、現在に御比礼がある。先生が来る度に言われるように、お供えの内容が変わってきた。父親の時代の信者がどんどん復活してくる。新しい信者が日に何人ずつ参ってくる、というようにおかげを頂いておられるという事をです、先生どういうような事だろうかと、こう言う。ね、
 なつめ先生もやはり厳然とした格好で、まぁ厳然としたまではないでしょうけれどもです、そういう椛目でのその姿をそのままに、持って帰られて自分の広前にそれを実行されたところが、信者が寄りつきにくなったと、かえっておかげを受けられんようになったと、こう言う。吉田先生はどういう事かと言うと、それが、もう境におかげを頂かれるようになっておられるという事。私はやっぱり実感の問題だと思いますね。教祖の神様がです、いわゆる形の真似が出来ても心の真似が出来んからと、こう仰った。
 なら、吉田先生だって形の真似は出来たけれども心の真似が出けておるとは思われんです。そうでしょうもん。けれどもどこになら、椛目と交流するものがあるという事。それはどういう事かと言うとですね、例えばなつめ先生の場合はです、ね。その厳然とした姿だけを真似されておる。ところが、吉田先生の場合なんかは、何と言うんですか、もうファン気質とでも言うでしょうかね、一つの憧れです。
 本当に相済まん事ですけれども、こうやって親教会にお参りさせて頂きよりますけれども、本当は椛目にこうやって、途中で寄せて頂くという事が有り難いんだと、こう言われる。それが嘘でもなかろうごとある。ね、一つのその一目惚れていうかその、そのいわば、先生に対するところの憧れの面というものが違う、内容は違っても。言うならばそう真似でもさせてもらわなければおられないというものである。
 それが、もうどんな癖でも、その代わり、悪い癖でもその代わり持って帰っておるという事である。私が御祈念をするとに必ず、羽織の襟をこうやって扱うという事も実行する。座ってから羽織を後ろの方でこうやってする事も、やっぱり先生、私はそれを実行しよります。これはですね、真似ではなくてもう、それは一つの憧れなの。自分の好きな人のですね、憧れなの。
 内容は違うても、そういう思いでやるならば真似でもおかげ頂けれるという事。今日私が言おうとしておる実感なんです。ね、片一方の方は先生が仰るようにです、形の真似は出来ても心の真似は出来んから。こっちの場合だって同じ事。形の真似は出来ても心の真似は出来んけれどもです、もう良か所でも悪か所でも真似せずにはおられんという憧れの、いわば憧念心というものが違う。
 そこに例えば隅庄の御比例が私はあるとこう思うんです。ね、まぁ大体に別ければ、ね。 実感として例えば、この頃も吉田先生が来てから言われておられます。御結界に座らせて頂いたら、ね、一番口に椛目の親先生を思いますち。 私の心の中にハッキリ椛目の先生が御結界の奉仕の姿をここに感じるのが出来るて、御結界に座れば。これはお世辞でもなかろうように思うです、そういうようなもんなんです。ところが、なら、なつめ先生の場合はそうじゃない。
 椛目では厳然とした、ああいう姿勢ていうか、ああいう態度でお取次ぎをしておられる。ところが、その厳然たる姿勢だけを、目をつぶったからて私の姿が現れてくるとは思われない。ね、そこにあの、この憧念心というものが、ね、「    」のならん憧念心ていう事が実感なの。自分の心を磨くという事、ね。これは、そういう事に一切にそうなんです。お互い信心させて頂くならばです、ね、有り難いもんだ、自分でも有り難い言うとるが、果たしてどのくらいな実感が込もっておるのだろう。
 今日なら肝心要のお父さんの繁雄さんの有り難いよりも、叔父さんの久富勇さんの有り難いの方が、とにかくどのくらいいわば、高度なものであるかという事は、それこそ涙が出るほどに感激してごるもん、片一方。ね、しかもここだけではない、あちらへ下がってからでもその場の話をされる時には、もう涙流して話しよりなさいます。とてもあれで助かったとは、とにかくおかげ。なるほどこれは、椛目のそうした大きな、まぁなんですけども。 本当にあの、椛目で本気で打ち込んでおる人達の上にこういう事が起こってくるという事は、椛目自体が分からんならんと同時にです、これはやはり繁雄さんの所の、日頃の信心がこういう場合に物を言うたんだと私は思うんです。
 そういうおかげを頂いておりましてもです、なら実感としてですたい、ね。涙が出るほどに有り難いという事までは行ってない。ね、だからどうかしてですたい、そういう実感を、としての神様と、私と、皆さんとの繋がりをです、何とか工夫して行かなければならん、ね。今朝から、久留米の笠さんが久留米からお参りして見えてから、もう先生夕べの御理解を頂かせてもろうて月次祭の。
 もう私はそれこそ、実感としてです。もう先生、もう本当にそうです、そうですてあっちから、頂きながら言おうごたった。先生、昨日先生がお話になった事を、私は昼から考えよりましたち言いよった。神様がなるほどどこにでもござるですねち。テレビを見よっても、ラジオを聞きよっても、御理解と同じ事を聞かせて頂く。はぁそうだなぁと思うたち。テレビの中でね、何かその、本当の良いお父さんになるという、何かドラマか何かの中にそんな言葉があったそうです。
 だから、本当な良いお父さんとはどういうお父さんだろうと。ただ優しいだけというのが、良いお父さんじゃない。 ね、良いお父さんになるという事はです、ね。 子供が本当に家のお父さんは良いお父さんとして信用してくれるもんでなからなければ良いお父さんじゃなかて事。いわゆる、子供から信用される私になるという事だという事、ね。 悪い事しちゃ出けんぞち言うて親父が子供に言うたっちゃ、自分自身が悪い事しよってから子供に悪い事しちゃ出けんぞち言うたち、子供が言うこつ聞くはずがなか。
 私はそこの所を思いましたち言うてこう話した。ね、夕べもその御理解の中にです。信心っちゃ難しいもんじゃないと。その気になりゃ出けん事はなかて、ね。皆がおかげばっかり追うておるから、何時までもおかげを頂けんのだと。本気で信心を分かろうという気になりゃ、信心は見やすい物じゃけれども、氏子から難しゅうすると仰るように、おかげを求めるから信心が難しゅうなる。
 信心を求めるならば、その気になりゃぁ難しゅうない。8時の汽車に乗ろうと思う時にはやっぱり7時50分に駅に行かなければならん。それが何が難しかか、というような御理解であった。いわば言うならば私が今日、昨日テレビを見ながら感じた事がそれであったと。椛目で信者になるという事は誰でも出来る事。椛目にお参りすれば信者になれるのだけれども本当の良い信者、真の信者になるという事は難しかと皆が思うておる。けれども、本当に真の信心にならせて頂こうと思うたら難しゅうはなかち。
 お父さんになるという事は、難しい事でないように、ただお父さんになるというだけなら、結婚すりゃ子供が出来る。誰でも、お父さんになる事が出来る、そうですよね。笠さんそんな事を、言われるんですよ今日。子供はそうやって持って、誰でもお父さんになる、けれども良いお父さんという事は、難しいごと言いよるけれども、難しい事はなか。本気で良いお父さんになろうと、ね、子供に自分が言うておること、しておる事が一致しておるお父さんにさえなりゃぁです、子供が信用せんハズはないて。
 子供がついて来んハズはないて。親父はあげなんこつ言いよるばってん、我はあげんであってから。我どんだけは悪か時はあってから、今俺達ばっかりにこう言うというような事では、子供がついて来るハズはないのであるね、信者になるのは椛目に参りさえすりゃ誰でも椛目の信者になれる。結婚さえすりゃぁほとんどの人がお父さんになれる、子供が出来るから。けれども良いお父さんになる、良い信者になるという事はです、本気で良いお父さんになろうと思わなければ良いお父さんにはなれんて。
 良い信者になろうと思やです、本当に良い信者になる、真の信心を頂かせて頂こうと。それには、おかげでだけを追い求める信心じゃつまらん、何時まで立っても信心なぁ分からん、真の信心を身につけさせて頂こうと言いやぁ、本気になりゃぁ難しいもんじゃない。それは、8時の汽車に乗るのに7時50分に駅の前に行くようなくらいなものであるから難しい事ない、と言われたが、確かにそう思いました。私がこげな事を言わんでん、椛目の先輩の信者さん方に、ならそこんにきゃぁ分かっちょいなさいましょうけど、私はいよいよそれを実感しましたというお届けされました。
 どうでしょうか、笠さんの言われる事には、ほんに恥ずかしかと思いなさらんですか皆さん。ね、おかげを頂く人達は違いますよ。ね、実感として、なるほど信心は難しいものじゃないという事がです、その気になれば難しいもんじゃないという事をです、昨日私は体験させて頂いたというような話をなさっておられます。ね、参るだけじゃいかん、拝むだけじゃいかん。本気でその気にならなければ。先ほど富永先生がその、真剣のお知らせはどういうようなお知らせでしょうかと。真剣、刀のお知らせ。ね、そりゃぁ真剣が足らんという事くさい。 
 なら真剣になるちいう事はどげな事っちゃろうかて私申しました。私はここで修行をする、ほとんどの方に申しますと。私がスキがある時は打ち込んでおいで、いつでもどこからでも良い。寝とる時でも良か、裸になっておる時でも良か。真剣と言やぁ紋付はかま着けてキチッとこうしとる時だけが真剣ではない。いつも神様と交流しておる事なんだと、実感として。はぁ先生裸になってから。なんてん言うちゃ出けんて。裸になっておったっちゃ、やっぱり、ピシャッと受け止めるとこだけは受け止めてござる。
 本当にそういう意味合いにおいてです、今朝の御理解じゃないけれども色眼鏡を外しておかげを頂かなければいけんて。そして実感としてです、ね。本当の真の信者になるという事は、ね、信心とは難しいもんじゃないという実感をです、頂けれるような信心を頂かなきゃいけん。今日はその実感という事を申しました、ね。お礼でもお詫びでも、願いでも、ね、やはり実感。
 しかも、それこそ一番有り難いというのは、一番相済まんというのは、涙ながらにお詫びをする、涙ながらにお礼を申し上げるというようなです、高度な、私は有り難いというのが、真に有り難い。または真に相済まんという事ではなかろうかと思う。真に相済まんでも、真に有り難いでも、おかげを頂くという事においては同じこと。その真にという所から神様と交流が始まる。おかげがその交流する道を辿って流れてくるのである、
   どうぞ。